多くの経営者を惹きつける杉浦さんの「順調な船出」の秘訣とは

独立を考えられている50、60代の方の中には、「独立しても顧客を見つけられるのだろうか」と不安に思う方も多いかと思います。

今回の取材では、独立後3ヶ月以内で30社と顧問契約を結ぶなど、普通では考えられない結果を出している杉浦さんにお話をお伺いしました。これだけ聞くと、「杉浦さんは大企業の役員だったんでしょう?」と思うかもしれませんが、実は前職を退職された際の役職は「課長」でした。

しかし、杉浦さんがたった3ヶ月で30社と顧問契約を結べたのには理由があります。

なぜ杉浦さんの周りには人が集まるのか、杉浦さんが提供する価値とは何か。独立の成功のヒントが詰まった、非常に有益なお話をお伺いしました。

代表世話人株式会社 代表取締役
杉浦 佳浩
大阪府出身、1963年生まれ。
学生時代はバックパッカーとして海外を放浪し、大学卒業後に三洋証券株式会社に入社。その後、株式会社キーエンスを経て、住友海上(現:三井住友海上)へ。会社員時代から「人と人をつなげる」ことを通じて多くの経営者を支援、独立後の事業の原型となる。2015年に独立し、代表世話人株式会社を設立。現在は数十社の顧問として経営者の課題解決を支援している。

学生時代はバックパッカーとして海外を放浪

杉浦さんは学生時代、どのような学生でしたか?

私が学生の頃は家族で冬はスキー、夏は沖縄に行くのが定番だった時代ですが、小さな頃から父が仕事人間で、旅行にいく経験があまりなかったんです。

そのような環境で育ったので、見たことがない場所に興味を持つようになり、バックパッカーという言葉自体がまだ浸透していない時代でしたが、アルバイトで貯めたお金で海外に行くようになりました。

大阪発上海行きの船があることを知って「飛行機より簡単に海外に行ける。」っていうことに気づいて、中国が自由旅行を認めた後すぐに上海に行ってみました。

そこから海外旅行にハマって中国以外にも一人でヨーロッパを周遊するなど、バイトしてお金を貯めて旅をするという時間の使い方をしていました。

そして就職活動の時期になり、当時は「銀行よ、さようなら。証券よ、こんにちは。」という流行語が生まれるくらいに証券会社の時代が来ると考えられていました。

そのような時代背景もあり、「証券会社に入れば海外に行けるのではないか」と考え、証券会社への入社を決めました。実際はそんなことはないというのを後で知ることになるのですが…。

証券会社に新卒入社、鹿児島支店での上司との出会いをきっかけに仕事への向き合い方が変わる

証券会社に入社後、どのような社会人人生をスタートさせましたか?

入社後、鹿児島支店へ配属され、証券営業を担当するようになったのですが、「こんなことやるためにはいったのか?」と感じて、入社して10日ほどで辞表を出したんです。しかし、当時の上司がすごくいい人で、「まだ入社したばかりだから成果には期待してないよ。旅行に来たと思って頑張ってみなよ」と言っていただき、その言葉をきっかけに、たとえ仕事でお客様に怒られても旅行気分で毎日を楽しむようになりました。仕事を楽しんでやっているうちに、成績にも結びつくようになり、社内でも表彰されるようになったんです。

証券会社の仕事が順調である中、キーエンスに転職されたとお伺いしておりますが、どのような経緯があったのでしょうか?

元々、証券業務を好きで入社したわけではなかったのもありますし、株価自体がバブルの前兆で絶頂期に差しかかり、3万7000円後半になっていて、その状況に対して不安を感じていたんですね。その時にたまたま資産家のお客様がキーエンスに注目して株を買い始め、そこから株価がどんどん上がっていくのをみて、すごい会社が大阪にあるということを知りました。

日本にとって「ものづくり」は重要な産業であると考えており、徐々にキーエンスへの興味が強くなり、面接を受けてみたら内定をもらえたんです。そこでキーエンスに入社することを決意し、勤めていた証券会社に退職を申し出た時に副社長に引き止められました。入社して3年ほどの社員でありながら、副社長に引き止めてもらえたので、「次の環境でも頑張らないとな」と気合が入りました。

同じくキーエンスでも成果を出されていたのでしょうか?

キーエンスではホームランバッターを求めているというよりも、きちんと毎月与えられた目標に結果を出すことに重きを置くような社風でしたので、その範囲では成果を出していたかと思います。

私の担当するキーエンスの製品は、細かい説明が不要な商品であったため、お客様に会う量をこなさないといけないような状況でした。1日10件では少ない方で、おそらく1日13件、多いときで15件のアポイントを朝の7時台からこなしていましたね。

一方で、当時のキーエンスは東北にも販路を拡大しているような状況で、東北への転勤になる可能性も高かったんですね。その頃、出身地である大阪に戻りたいなと考えており、そのタイミングで住友海上(現三井住友海上)で働いている知り合いから声をかけてもらったんです。

話を聞いていると、三井住友海上火災から内定をもらえれば大阪に帰れることがわかったので、三井住友海上火災の選考を受け、内定をいただいたので入社を決めました。

三井住友海上火災時代に現在の事業の原型が作られる

キーエンスから三井住友海上火災に入社されましたが、この頃から現在の「人と人をつなげる」事業の原型が作られたのでしょうか?

そうですね、これは三井住友海上火災の社風も起因しているのですが、当時のキーエンスはベンチャーの社風もありましたから、会社に提言したり、改善点を提案することを重んじていたんですね。

それとは打って変わって三井住友海上火災はレガシーな社風で、同じように会社に提言しても場合によっては怒られちゃうこともありました。

ある時「なんで保険だけ売っているんですか?」と上司に疑問を呈したところ、「お前がいうな!」と怒られちゃいまして、「保険だけ売っていてももったいのにな」と感じていたんです。「社内に向いていても仕方がないな」ということで、仕事で空いた時間は社外で活動しようと思ったんですね。

それを決心してから、「社外上司」のような方を50人ほど作ろうと決めました。大体30歳の頃から意識的に始めて、40歳過ぎた頃には「社外上司」が100人を超えていたと思います。今振り返るとレガシーな社風だったことが、いい結果に繋がりましたね。

人に会い続け、仕事につながるような間柄を作ることは簡単ではないと思います。杉浦さんはなぜ、それほど多くの方と良好な関係を構築できたのでしょうか?

やはり人に会う時に価値貢献できているかどうかが一番重要だと思います。人と会う時は自分の話よりも、「目の前の方が求めているものは何か」を意識することで、次につながり、結果として多くの経営者の方とお会いできました。

例えば、関西に販路を広げたい北海道の大根農家の方と知り合いあった時は、農家との出会いを求めている関西の方を集めてマッチングする会を開催しました。もちろん社内の業務もこなしながら、保険とは無縁のところでも価値提供しているうちにお付き合いが広がっていきました。

そんな日々を送っているうちに、お世話になっていた役員の方から「出世したいのか、自由になりたいのか、どっちだ?」と聞かれました。その役員の方はすごくいい人で、「選んだ方を認める」と言ってくださって、出世はいらないので自由にしてくださいと言いました。

そのような経緯もあり、ノルマや出社義務も課されずに、社員や保険代理店、周囲の金融機関など、会社全体のためになるようなことをやっておりました。2万人の社員がいましたが、そのような立ち回りをしているのはおそらく私だけでしたね。もちろん、それだけ自由に動いている社員は他にいなかったので、社内では浮いていました。

病で倒れたことをきっかけに、独立を決意

そのようなサラリーマン時代を経て独立をされていますが、どのようなきっかけがあったのでしょうか?

そんな自由な働き方をしている日々を送っていたのですが、当時私の自由な働き方を認めてくれていた役員の方が人事異動のため変わりました。新しい役員やその方が管轄している部長は、社内における私の存在価値を認めなかったんですね。

そのような精神的にも苦痛に感じる状況もあいまって、お酒を大量に飲むようになり、体調的にもよくない時期が続いた結果、社内で倒れてしまいました。そこから3週間ほど入院するのですが、その時から独立を考え始め、病室から経営者の方々に相談しました。

相談する中で「独立したら応援するよ」という声を多くいただいて、独立に対する決意がより確かなものになっていきました。

経営者たちからのエールで独立を決心されたんですね。

はい、それ以外にも独立を意識した出来事がありまして、三井住友海上火災に転職してから20年が経過した頃、社外の経営者の方から転職20周年を祝うパーティを開催してもらったんですよ。しかもそのパーティに経営者が200名ほどご参加いただいて、その時に「独立したら応援してくれますか」とお伺いした時に100名くらいから「応援するよ」と言っていただいたんです。

入院する前にそういった経験もあったので、独立しても生活できそうだなと考えていました。

独立以外に復帰してそのまま在籍することや転職といった選択肢は検討されていましたか?

倒れて入院した時に、奥さんから「会社を辞めてほしい」と頼まれたんですね。「でも、これくらいの収入はちゃんと確保してね」とコミットメントも課されました。笑

会社を辞めることと、当時の収入を確保することをセットで考えたときに、年齢的に考えて転職は現実的ではなかったんですね。ただ先ほど申したように、経営者の方から応援してもらえる状況があったので、独立を選択しました。奥さんに半ば強制的に選択肢を限定されたことも、独立を決意したきっかけかもしれないですね。

独立を決意してから、事業アイディアはどのように考えられましたか?

先ほどお話ししました、サラリーマン時代にやっていた「人と人を繋げること」を独立後の事業にしようと考えていました。

実際に紹介した後に化学反応が起きて事業が好転した事例もいくつか見てきました。これであれば多くの方に価値提供できると考えており、活動を続けるために必要な費用を支援してくださる方を探して、顧問契約を結ぶ形で事業をスタートさせました。

独立して3ヶ月後には顧問契約が30社。その順調な船出の秘訣とは?

独立後は顧客獲得は順調だったのでしょうか?

そうですね、当初は顧問契約数は30社限定でやると決めており、嬉しい悩みではあるんですけど、独立後にナンバリング1番を希望する方が7名もいらっしゃいました。つまり1番初めに契約してもらわないと嫌だという方が同時に7名もいらっしゃったので、ナンバリング1番を持っている顧客は7名いらっしゃいます。笑 

顧客獲得は焦っていたわけではないのですが、独立して3ヶ月後にはそれまでお付き合いしていた方のご支援もあって30社ほどからすぐにご契約をいただけました。

今のお話を聞く限り独立後はかなり順調であったことが伺えます。一方で、独立後に直面した困難もありましたか?


1月1日から独立することを決めて、その前月の12月は会社にも行かずに人と会っていました。その中でも「この方は応援してくれそうだな」と思っていた方に「このサービス内容では契約しない」と言われたんですね。

自分の中では、近しい関係の方から順番に会っていったつもりではありましたが、早々に事業内容に対してネガティブな感想をいただきまして、「このまま進めても大丈夫かな」と少し不安になりました。

それでも人と会う中で「杉浦さんは営業せず、わたしたちに任せてください」と言ってくれる方も何名かいまして、その方々が私の代わりに営業をしてくださったんですね。そこから顧客獲得はスムーズに進みました。

杉浦さんのためにそこまで動いてくれる方がいらっしゃったのはなぜだと思いますか?

自分で言うと偉そうに聞こえる話ですが、その経営者の会社の成長のために長年寄り添っていたのが大きいかと思います。17、8年ほどの付き合いになる経営者も複数名いまして、その方々が「杉浦さんを応援する会」を結成し、私の代わりに営業してくださりました。

なぜ杉浦さんの周りにはそのような熱狂的なファンの方が多くいらっしゃるのでしょうか?

やはり人と会うことを楽しんでやっていたり、人と会う時に自分の仕事の話を先に持ち出すのではなく、相手の課題を率先して考えていたからだと思います。

サラリーマン時代に人に会っていた時のことを振り返ると、保険も売ろうと思えば売れていた状況があったにもかかわらず、私はそれをしなかったんですね。「変わった人だな」と思われていたのかもしれませんが、結果として強い信頼につながったと思います。

そのような熱狂的なファンが周りにいる杉浦さんは、仕事においてどのような価値観を大事にしていますか?

やらないことをしっかりと決めるようにしています。独立するといろんな話が舞い込んできて、話によっては収入面にも大きなインパクトを与える話もあります。

しかし、やらないことを決めて、目の前のお仕事やお世話になっている方に集中することで、強い信頼につながっているのだと思いますし、長いお付き合いが実現できていると考えています。

その結果として、30社ほどの顧客と長くお付き合いされていらっしゃるんですね。一方で30社はかなり多い方だと思いますが、日頃の体力面のメンテナンスなどはどのようにされていらっしゃるのですか?

独立してからは組織で仕事をしているわけではないので、健康はかなり大事だと思っています。コロナをきっかけにお酒もやめてから健康的になりましたし、2年半前から四国の遍路を歩いています。

現在2周目に入っていますが、1泊2日で平均50キロも歩いており、これを月に1、2回やっています。遍路は1周1200キロ以上あるんですが、2年間で回り切りました。そのために体を整えておかないと影響するので体調面は気にしていますね。

つい先週の土日もこの炎天下の中、高低差1700mのところを40-50キロほど歩いて、月曜日から普通に仕事をするような、そんな生活を送っています。

杉浦さんがハードなスケジュールをこなせるのも、今のお話で納得しました。多くの方が杉浦さんのように独立後に充実した人生を送りたいと考えています。一方で、「役員まで出世しないと独立後も厳しいのでは?」と考えている方も多く、そのような方に向けてアドバイスはございますか?

そうですね、よく50、60代で独立を考えている方と話す機会がよくありまして、その時に「会社員時代、何が一番誇れますか?」という質問をよく聞くのですが、やはり役職を中心とした話が多いんですね。例えば「部長やっていました」「役員をやっていました」などですね。

しかし、蓋を開けると、与えられた仕事を全うしていたのかと言われればそうではなく、ストレートな言い方をすると「役職だけの方」が多いなと感じておりました。

私も昇進して課長まででしたが、普通のサラリーマンには考えられないくらいの社外のネットワークを持っていました。その社外のネットワークも過去の遺物で終わるのではなく、現在もお付き合いしている方も多くいます。

もちろん、独立後に必要なのはネットワークだけではなく、若い社員をまとめるマネジメントスキルであったり、チームを引っ張れるスキルがあれば、社外でも活躍できる可能性は大いにあります。

しかし、役職を頼りにキャリアを歩んできた方は、社外に出た時に活躍できる場所がないというのが現実かと思います。その役職は社外に出た時に役に立つのかを客観的に考えることが重要ですね。

いわゆる「ポータブルスキル」を持っているかどうかが重要ということですね。まだ準備を始めていない方が独立のためにできることはありますでしょうか?

そうですね、社内ではなく社外に目を向けるべきだと思います。社外にどれだけネットワークを持っているかが、独立のパロメーターかと思います。なので、まずは社外に出て人と会うことなどから始めてみるなど行動に移すのがよいでしょう。

また杉浦さんは契約後の継続率が高いとお伺いしております。こちらも独立する人にとって重要なポイントだと思いますが、顧客と長くお付き合いできる秘訣はなんでしょうか?

はい、ほとんどの方が契約してからずっと契約していただいております。まず意識していることとしては、無理のない範囲で契約することをお願いしております。

私は短期で多額な報酬をもらうことよりも、少額の報酬をいただき、長いお付き合いをしていただく方が大事だと思っております。

杉浦さんは、独立後、どのような目標を持ってお仕事されていらっしゃるのでしょうか。

私は別に経営者ではなく、フリーランスだと思っています。ただフリーランスとして100億円の売上がある1000社の会社と仲良くなり、合計して10兆円の経済圏にアクセスできる状態を作りたいと考えています。10兆円の経済圏と一人で関わることができるのはおそらく稲盛さんでもやっていないと思いますし、プロ経営者もやっていないですね。

お付き合いしている会社の中には売上が100億円から数百億円規模の会社もそれなりに増えてきましたので、10兆円は夢ではないと思っています。

壮大なビジョンでありながらも射程範囲内にあるのが凄いですね。そのような目標を持ちながら現在取り組まれているお仕事において、どのようなやりがいを感じますでしょうか?

「企む」ことが好きで、経営者からのオーダーに対して、そのまま対応することは実際あまりおもしろくないんですよね。それよりも経営者の方が気づいていない課題に対して、意外な解決策を提案して、それが解決につながることが一番楽しいと思っています。

新たな視点から提案することもまた顧客にとって付加価値になりますね。最後に、セカンドキャリアについて悩まれている50、60代の方に向けてメッセージをお願いします。

私の言っていることが全て正解だとは思いませんが、まずは一歩踏み出してみることが大事だと思います。人生100年時代と言われる中で、20代でキャリアをスタートしたことを考えると、50代、60代はまだ半分もきていないことになりますよね。

どの年齢まで頑張るかにもよりますが、まだ30、40年も時間があるわけです。時間に余裕がある中で、悩んでいる場合ではないなと思うわけです。悩む前に何か行動を起こすことが一番大事であり、最終的には人生にも終わりが来るので、「そのまま人生終わりにしていいのか」と自分自身に問いかけてみてください。

そうすると、「このままじゃだめだ」と思うはずで、そう思うのであれば、まずはできることから行動に起こしていきましょう。